弱い者いじめ、カツアゲ、そして特上寿司… 僕が苦しんだ「いじめの闇」と「加害者の真実」
皆さん、こんにちは。
前回、僕が25年間うつ病で苦しんできた壮絶な話を聞いてくれて、本当にありがとうございました。
今回は、そのうつ病の根本にも繋がる、僕の子供時代のトラウマについて話したいと思います。正直、あまり思い出したくはないのですが、僕は小・中・高と、ずっといじめられていました。
弱い者いじめと、学校の”暗黙のルール”
前回の話にも少し出てきましたが、子供時代は体が弱く、背が小さかったこともあり、小学生の頃はよくからかわれることが多かったです。この頃はまだ「いじめ」というより、「いじられる」といったイメージで、深刻には捉えていませんでした。
ですが、これが中学生になると、もうガッツリ「いじめ」としか言いようがない出来事が何度もありました。
今思えば、皆の平均身長よりも10cm、20cmは背が低く、身体も小さく弱かった僕をいじめるのは、完全に弱い者いじめですよね。明らかに「勝てる」「絶対負けない」という条件の下でいじめるわけですから。それに加えて、僕もやり返そうとしない。つまり、100%勝ち確定のいじめです。
それでも、顔や体があざだらけになるくらいボコボコに殴られたのは一度だけでしたが、女子の前でパンツを脱がされたり、トイレで大をしていると上からバケツで水をかけられたり、といった陰湿なこともありました。
この「トイレになかなか行けない」という当時の学校の風習も、今思えばかなりヤバいことだと思います。皆、特に「大」の方はものすごく我慢するわけです。なぜ我慢するかというと、恥ずかしいとか、あとはトイレに入っている時にいたずらをされたりするから。
でも、こういう誰もがある生理現象を邪魔したり、恥ずかしいと思わせるような風習は、どう考えてもおかしい。特に僕のようにいじめられていた子供は、余計トイレに行きづらいわけですから。それで膀胱炎になったり、腸に便が溜まり過ぎて大変な事態になった子供も当時いたでしょうね。
まあ、部活で喉がカラカラなのに水を一切飲んではダメ、みたいな教育もあったくらいですから。忍耐や我慢が美徳のように思われていた昭和の時代でした。大人がそういった状況を黙認していた、ある意味では異常な時代だったとも言えます。
陰湿な嫌がらせの数々
いじめの話に戻りますが、本当に色々な陰湿なことをされました。
- 物を隠される
- 弁当のおかずだけ全部食べられる
- 持っているお金をとられる、いわゆるカツアゲ
- 学校近くのお店に買い物に行かされるパシリ
さらにエスカレートすると、自宅に特上寿司が届いたり、タクシーが5台も来たりもしましたね。もう、お店とかを巻き込むのはやっぱりダメでしょって思いますけどね。
今だったら簡単に特定されて、やったのが子供だったとしても捕まっていたと思いますが、当時は公衆電話とか自宅の電話でも番号が出ないわけですから、お店もどこから掛かってきてるか分からないわけです。
まあ、今ならどう考えても犯罪のような話もいろいろあるので、全部は言いませんが、このようなイジメが高校時代まで続きました。
恨みは消えない、でも苦しみは手放せる
僕もやっぱり、相手に対して何も思わないかと言えば、当然そんなことはないわけです。
本当、いじめは良くないですよ。
色々な嫌がらせの数々により、心理的にかなりトラウマのようになったわけで、しばらくは苦しい記憶のフラッシュバックや、恨みの思いから、大人になっても加害者にされたことが蘇ってくることがよくありました。(フラッシュバックではなくキャッシュバックなら喜んでもらいますけど😂)
そのくらい、やられた方はずっと覚えているっていうことですよね。犬などもそうみたいですから、人間はもっとでしょうね。
そんなわけで、高校卒業後、いじめから解放されても、しばらくは許せないという気持ちが常にありました。おそらくこれはいじめられた経験のある人みんなが共通して言えることだと思います。それだけ、やられた苦しい記憶は残り続けます。
実際に高校時代大勢からいじめられていた人は、僕が30代後半くらいの時になってもアイツらは絶対に許せないと言っていたのを耳にして、もう20年以上も前の話なのに忘れられないくらい苦しい記憶だったのだと理解しました。
でも、まあ僕自身は今こういう話が冷静に出来るくらいですから、仮に思い出したとしても以前のような苦しさはありません。
それにはもちろん理由があります。その理由について、今から話していきます。
加害者もまた「弱い存在」だった?
結局、このいじめというものは、この優劣社会がなくならない限りは、残念ながらずっとなくなることはないでしょうね。
そして、実際のところ、いじめはその被害者も加害者も、どちらも辛いということなんです。
おそらくこう言うと、被害者のいじめられた側は、「何を言っているんだ?どう考えても加害者が辛いわけないだろ!」と思う人が多いでしょう。
僕自身も昔であれば、加害者が100%悪いと思っていましたが、今はその考えは違うとはっきり言えます。
なぜならば、加害者も必ず何か原因があっていじめてきたわけがあるからです。
これは、よく言われる「いじめられる側にも問題がある」というものではありません。そんな問題なんてないわけですから。「見た目が」とか「人とは違う行動や言動をするから」とか、そんな理由でいじめられても仕方ない、なんて話があっていいわけがないですからね。僕が言いたいのはそこではありません。
いじめの原因となっているのは、優劣と恐怖と不安です。
親や社会から、「何事も勝たなければ、上に立たなければ、負け犬のように生きる事になる」みたいな、極端に言えば、「負けたら一生底の人生」みたいな教育がなされた結果だと思います。または、兄弟からのいじめ、八つ当たりなどを受けていたとか…。両親からの愛情を受ける事がなく、いつも心の中が孤独感でいっぱいだったなど・・
これは、いじめをする子供(加害者)からすれば、凄いプレッシャーですし、同時に恐怖や不安にもつながります。
本当は、心が幸せな状態で子供がいられれば、間違いなくいじめなんてしようとは1ミリも思わないわけです。簡単に言えば、常に両親から愛されていて衣食住も目標も明確にあって、人との付き合いも良好。常に楽しい時間が続いて100%満たされていれば、子供は悪い事をしようなどという気持ちにはならないのです。むしろ悪い事をしていたら注意をする側にすら回るかもしれません。
ところが優劣社会においては、「勝つことが正義」「誰かを蹴落として上に立たなければいけない」といったように子供に教えてしまう親が多いために、子供は息苦しくなって、誰かをいじめることで自分の心の安定を図ろうとする子も出てくるわけです。
つまり、元はそんなつもりもなかった子供が、親や環境によって、いじめる子供に作り上げられてしまった可能性が高いとも言えるわけです。
仲間と一人、見えた加害者の「弱さ」
だから、僕をいじめていた子供の中でも、周りに仲間が多くいる時は先頭に立っていじめてきたのに、その加害者の子が一人でいる時は、なぜか僕に近寄ってくることもなく、目の前にいても何もしてこないのです。
つまりこれは、仲間がいる時は「自分を強く見せなければ、なめられる、馬鹿にされる」といったような恐怖や不安があったため、敢えて強がっていじめてきたわけです。
ところがいざ一人になった時は、誰も周りにいないので強がる必要もなく、本来の本当は弱い自分がそこにいるという感じです。だから、弱いから、怖いからこそ、一人ではいじめてこないわけです。
これって傍から見たら、実は加害者も弱い存在ということなのです。自分が弱い人間だからこそ、いじめるわけです。だって、強い人間だったら別に堂々としていればいいわけだし、むしろ強い人間と闘いたいとさえ思うはずです。
例えば、プロボクサーの井上尚弥選手が、明らかに素人の一般人に対して本気で闘いを挑んだりしませんよね?
つまり、本当に心も体も強かったら、わざわざ僕のように小さくて身体も弱かった人間に何かをしようなんて事をするわけがないのです。
そう考えると、もしかするといじめる人間も、僕たちいじめられる側と同様に、ずっと恐怖や不安が常に自分の中でグルグル回っていたのかもしれません。自分がもし被害者側になってしまったらどうしようと怯えていた可能性すらあります。
だったらあなたは加害者を許せるのか?と聞かれれば、そこは簡単にはうなずけない自分がいるのも事実です。ただ許せないまでも、もう恨むといった気持ちは全くありません。
カルマは巡る。やったことは必ず自分に返ってくる
そして、一番重要な事がここにあって、心に行ってきたことは全て自分に返ってくるという法則です。とても不思議なことなのですが、外面では見えませんが内面では自分がやった事の善悪がずっと残り続けます。つまり確実に言える事は、いじめた人(加害者)も、必ずその後の人生で僕のように苦しんだはずです。
芸能人でもありましたよね。昔のいじめを暴露してしまったために、今度は自分が多くの人からいじめのようなバッシングを浴び続けたという人も…。
有名な俳優の人も、自分の書いた本の中でいじめを告白していましたが、きっとその俳優の方も、いじめバッシングを受けた芸能人のニュースを見て、「もし自分の過去がスクープされたら?」「仕事や今の地位を失ったら?」「家族や子供がいじめられることになったら?」と、不安で眠れない事もあったかもしれません。
このように、必ず自分がしたことは、いずれ自分だったり、自分の大切な人などに向けて返ってきます。
昔武勇伝のようにいじめを語っていた人が、おじいさんになって可愛い孫が出来たとします。しかし、孫が大きくなった頃に、おじいさんが昔いじめをしていたと知ったら、途端に態度が変わり、一切おじいさんに寄り付かなくなったとします。
凄く愛らしい表情をいつも向けてくれた孫が、二度とおじいさんに優しい顔を向けなくなってしまったとすれば、きっとそのおじいさんは過去を後悔したり、反省したりするかもしれません。
どこかで意識や思考の切り替えが起こらずに、そのまま何十年も過ごし続けた結果、ある日突然思いもよらないことが身に起こったりする可能性もあるわけで、とにかく必ずどこかの地点で修正が行われないと、やったものが返ってくるわけです。
苦しみを手放すための「決別」と「許し」
だからこそ、加害者も被害者も、自分の中にある不幸な意識や思考に早く気づいて、それらを手放して幸せな意識や思考に切り替えていくことがとても重要だと思います。
過去の苦しみを忘れられない気持ちは誰にでもあるし、もちろんその気持ちも当然分かります。ですが、そこに囚われているうちは、一生幸せな毎日を送ることは出来ないのです。
つまり、心を幸せな状態にしなければ、本当の意味での幸せはずっと訪れないと言えます。
いじめる側でも、それが楽しくて仕方ないという人もいるかもしれませんが、むしろそういう人は圧倒的に少なく、本当はいじめたいと思ってない、または思ってなかったという人の方が多いと僕は思います。
僕をいじめていた子たちも、結局は親からのプレッシャーや社会の優劣的な物の見方を強く押し付けられた背景がありました。もちろん、だからといっていじめが擁護されることはありませんが、結局はいじめた方、いじめられた方どちらも苦しみを味わうことになるのです。
僕もいじめられていた時は、全く相手のことなんて鬼や悪魔のようにしか見えなかったわけですが、ようやく他者の視点や背景を冷静に見えるようになったので、こういうことが言えるようになったのです。
人生で最も大事な視点:「心の深海ダイビング」
克服できなかった人は、どうしても卑屈になってしまい、その後の人生に影を落とすことになりやすいわけです。つまりそれは、本当の自分を出せない状態が長く続くわけで、やはり良いとは言えません。
僕もその影響が少なからずありましたし、どうしてもどんな時でも強く出れない自分がいました。明らかに相手が悪いはずなのに、なぜか謝ってしまうのはいつも自分だったりもしました。
本来は自由であるはずの意識が、いじめなどの経験から、まるで独房にでも入れられたような不自由な意識に塗り替えられるのは、本当に人生でかなりの損をすることになりますね。
ただ、自分を客観視したり、相手の視点から物事を見るという事が出来るようになったのは、大幅なプラスではありますね。
人間においては、最も大事な視点ですし、これが出来るようになるということは、多角的な物の見方が出来るようになったということでもあり、あとはその応用こそがまさに人生と人間を知るキーポイントとなっていくでしょうから。
時間が経てば、苦しみも財産と理解出来るのですが、さすがに精神のどん底に入る時は100%財産なんて思えませんよね。
僕は最近、「精神」という名の海、それも深海をダイビングしています。このダイビングは色々な気づきを与えてくれるので、皆さんもおすすめですよ。ただ、自分自身と向き合うという作業がどうしても必要なので、過去の苦しみにも焦点を当てることになります。結構辛いですが、そこをクリアすると…深海の一つ一つを攻略すると壮大な精神の世界に出会えます。
僕の中にある、とてつもないデカイ意識領域が存在していて…何か話が飛躍し過ぎましたね。今日はこの辺で!